その一歩の
白っぽいのは途切れた電線ではなく、飛行機雲である。
そう考えるのは意味の世界。
黒っぽいキリリとした線と
白っぽくてふわりとした線と
その構図が気にいるようなものとなるところに
一歩移動
写真を撮る。
その花が菊でありどのような品種であるなどというのは、情報。
情報は意味をもたらしてはくれるけれど
価値は、さてどうなのか。
もたらされた情報でこそ対象に価値を見出す人もいるのだろうけれど、
むしろ
意味や情報というところから離れたところでの
面白さや美しさを自ら探し当ててこそ、価値。
そうした考え方の方が、しっくりとくる。
探し当てるとは大げさな言いぶりで
実のところ
いい構図になるための、その一歩もまた
探求に他ならず。
その一歩があることで
いくら自然を写し取ろうとしても
そこには純粋な客観性などはなく
人間の意識が織り込まれることになる。
おのれを消し去ることで客観性を持ちうるという考え方の
なんと楽観的で面倒くさがりなことだろうか。
どんなに意味や情報をはぎとっていっても
人間には見届けたいようにものを見る定めのようなものがあるのかもしれず。
ただたんに○を書こうとするときに
そんな宿世に思い当たってしまうことがあるとしても不思議は無い。
半円をかき恐ろしくなりぬ 阿部青鞋
冬至の駅の
冬至の昼の
黒と呼ぶには弱弱と
であるからこそ饒舌なる
そのひと並び
ずらりと影
はかない袋の中には砂利
やぶれてまじりて地の砂利と
袋の中にある時は何らかの意味でくくられていたのだろうけれど
もはや
それとこれとの区分なき
その明るさとほの悲しさと
同類を得てこそ
ひとつでは際立たなかったものが何らかの意味を持つこともあり
太さの異なる三本のパイプの
その調和と異化の左折れなる直線の
同類とは
同じ規格において横ならびにされことを予定しつつ
それは同時に
人工照明の均質の晴れがましさを受け入れることでもあろうかと
いちごオーレやバナナオーレ
言葉であらわせば小石
もしくは砂利
そのひとからげの中に
それぞれの形や履歴
同じきものはひとつとて無く
世の役に立っていますよと
つまりは機能やら意義やらのくくりに言いおさめられつつも
なお
冬至の影
弱弱と
それぞれに
にぎやかなる週末
たとえば花が咲いていて
その横で「なぜ花が咲くのだろうか」と考え込んだところで
その花をあじわったことにならないように。
街の中でくりひろげられる様々なものごとを
あえて「なぜそうしているのか」「どうやってそうなってしまったのか」
ということの奥行きを排除してみてみると
おおよそ11月にはいってからの日々は
目ににぎやかなるものであった。
火伏せの神事にてお囃子を奉納し笛を吹いたり。
土曜日は大風呂敷をカフェとしてオープンさせたり。
本町二丁目を歩けば
人の手が生み出したものに出会い。
生み出した人やそれらをみせるための工夫をしている人たちに会い。
情報としてのメッセージは忘れていってしまうことがあっても
むしろそうした情報を欠く事物の印象、色彩や佇まいなどこそ
身体の奥に記憶として組み入れられるであろう、と思うほどに。
桐生のオノサトトシノブ
11/6日まで。
バリアフリーな環境で大川美術館の作品を、というコンセプト。
今回のテーマはオノサトトシノブ。
桐生で暮らし、桐生で没した国際的アーティスト。
普段あまり目にすることがないかもしれない水彩の○
具象の作品
これらもふくめてオノサオトトシノブの世界の一端を味わうことができます。
虹とねこじゃらし
もう光合成などもしない
色づき始めた葉を
太陽が照らしている。
照らされている葉を
この角度からこの時に眺めている。
この世に虹というものは「存在」しない。
虹という現象を目撃するものがいるだけだ。
太陽の光と大気中の水分とが作り出す色彩の華を
その角度からその時に見届けることで
はじめて「虹」は認識される。
見届けられることで初めてあらわれる美
それは、
たとえば、今日は、天満宮のイチョウの黄に。
2011年の震災の折に崩れたまま
5年の歳月に崩壊も進み
ともあれなお立ち続ける家屋もあって
その屋根の
すでに枯色を示している猫じゃらしに
西日
その明るさの11月の。
たしかにそれぞれはそこに存在する物質ではあるが
この角度でこの時に見るものは
存在している物質だけではない。
さびしさよ馬を見に来て馬を見る 山川蝉夫
濁った鏡
ほんの少しだけの紅葉。
子供達の声。
自宅から歩いて。
子供達の欲望へ
その極彩色の
真昼間の裸電球の下の。
どこへ帰るあてもない鳥たちを見て
とりあえず家へと帰る。
そこしか知らなければ
アフリカも銀河の果ても
いずれも夢物語の手触りなる。
濁った鏡に
知っているはずの街並み。
知っているということの限界を円窓に映し出して
家に帰るその道の。
自己ちょっかい
当然のことながら、 写真を撮っていると自分は写らない。
むしろ、自分の姿を見たくないので カメラを持つのである。
10月にしては暑いホームの上を歩きながら
何が撮りたいわけでもなく 写真を撮る。
撮るからには やれ、好みの構図だの、色合いだのというものが出てくるわけだけれど
それがあらかじめあるわけではなく ようは、ことのなり行きでの自分らしさめいたものであって。
とりあえずの自分らしさめいたものが
どのような反応を示すのか知りたくて
また何かをカタチにしてみる。
自己表現、と言われると、ちょっと面映ゆい。
自分というものすべてを意識が統括しているという認識を離れ
いわば予想もしない自分の感覚にちょっかいを出そうというのだが
となれば 「自己ちょっかい」 とでもいうべきか。
いささか、危険なにおいもしなくもないが。
白露に舌のとどかぬやすけさよ 耕司
まなざしは「ふやふや」として
○だけ描いている人がいて
その○を面白がる人がいる。
実に、味があるのだ。
それを手ぬぐいにしたら売れるだろうと行動する人がいて
それを面白いと思って買う人がいる。
たとえばそういう営みのどこかに、障がいをもつ人がいるというのである。
そこにあるモノが、そこに「ある」という状態になるためには
それこそほんとうにたくさんの人の手がかかわることだろうし
人のネットワークの面白さとあわせて
また来訪者のにぎにぎしい雰囲気もあってか
とても楽しい展示であった。
会場 伊東屋珈琲2号店 (itoyacoffee factory)
それはそうと
展示用の棚は藤井くんが作ったというのだが
その最上部から誰かに見られているような気がしたのであって。
人のかたち
そういわれて、なるほど、そうだとなるわけだが
そもそもこれらは人のかたちそのものではない。
そう思えちゃう、ということなのであって。
かといって
ここに本物の人間が座っていたりしたら
それはそれでとてつもなく恐ろしいことだろう。
人形は
「そう思えちゃう」という「あいまいな脳」をそれとなく肯定してくれる
ふやふやとした存在ということになろうか。
すっきりとした空間に
ふやふやとしたものがどこかを見つめていて
なんだか
これを見るのを目的に来てしまったようでもあった。
大あくび
よく寝た。
ほぼ1年ぶりの投稿である。
現実の日常は、これほど忙しい一年はないのではないか、というものであった。
今年の一月に父が他界。以降、瞬く間に時が過ぎた。
大風呂敷 改装後の写真。
右の柱は耐震用のヒノキのすじかい。
土台の基礎工事をする必要があったので、床面を切り取ったわけで
そこをそのまま埋めるのはつまらないから、砂利を入れて堀割風に。
別アングル。
世の動きの何に合わせるわけでもなく
何かを待っているようでそれが何であったかを忘れてしまったような
その、うつらうつら。
未だ、目覚めているという覚悟もなく。
蓑虫の返事を待つてゐて此岸 耕司
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