にぎやかなる週末
たとえば花が咲いていて
その横で「なぜ花が咲くのだろうか」と考え込んだところで
その花をあじわったことにならないように。
街の中でくりひろげられる様々なものごとを
あえて「なぜそうしているのか」「どうやってそうなってしまったのか」
ということの奥行きを排除してみてみると
おおよそ11月にはいってからの日々は
目ににぎやかなるものであった。
火伏せの神事にてお囃子を奉納し笛を吹いたり。
土曜日は大風呂敷をカフェとしてオープンさせたり。
本町二丁目を歩けば
人の手が生み出したものに出会い。
生み出した人やそれらをみせるための工夫をしている人たちに会い。
情報としてのメッセージは忘れていってしまうことがあっても
むしろそうした情報を欠く事物の印象、色彩や佇まいなどこそ
身体の奥に記憶として組み入れられるであろう、と思うほどに。