その一歩の
白っぽいのは途切れた電線ではなく、飛行機雲である。
そう考えるのは意味の世界。
黒っぽいキリリとした線と
白っぽくてふわりとした線と
その構図が気にいるようなものとなるところに
一歩移動
写真を撮る。
その花が菊でありどのような品種であるなどというのは、情報。
情報は意味をもたらしてはくれるけれど
価値は、さてどうなのか。
もたらされた情報でこそ対象に価値を見出す人もいるのだろうけれど、
むしろ
意味や情報というところから離れたところでの
面白さや美しさを自ら探し当ててこそ、価値。
そうした考え方の方が、しっくりとくる。
探し当てるとは大げさな言いぶりで
実のところ
いい構図になるための、その一歩もまた
探求に他ならず。
その一歩があることで
いくら自然を写し取ろうとしても
そこには純粋な客観性などはなく
人間の意識が織り込まれることになる。
おのれを消し去ることで客観性を持ちうるという考え方の
なんと楽観的で面倒くさがりなことだろうか。
どんなに意味や情報をはぎとっていっても
人間には見届けたいようにものを見る定めのようなものがあるのかもしれず。
ただたんに○を書こうとするときに
そんな宿世に思い当たってしまうことがあるとしても不思議は無い。
半円をかき恐ろしくなりぬ 阿部青鞋