ダルマ変転
ダルマ、である。
駅弁であるから、ダルマは食品の器なのだが
どちらかといえば
食品が入っている地域名物といったおもむきがある。
ダルマが 主 で弁当が 従 とでもいおうか。
中身が気になる方はコチラ → ダルマ弁当
ダルマも、かなり自覚があるらしく
口の真一文字の切り込みは、貯金箱への転用を主張しているらしい。
それでは、食品も入る貯金箱、である。
さすがはダルマ
使い捨てられないように戦略を張り巡らしているのだ。
しかし、
その、スポーツ選手が引退後お笑いタレントとして活躍するような
変容は
更なる変容を誘引してしまった。
ハローキティーだるま弁当の登場である。
もう、カワイければ、何でもいいのである。
元スポーツ選手のお笑いは、
アイドルにはかなわない。
このところ地方においてキティーの破壊力はめざましい。
ストラップを中心に、日本中で露出しまくっている。
カーネルサンダースやペコちゃんにくらべたら
ご当地キティーは、浸透度において、プロ の仕事ぶりを示す。
それはそうと
キティーの登場によって
「なぜダルマなのか?」ではなく
「なぜキティーがダルマに?」という問いかけが
駅のホームで目撃する人々の心に去来するたびに
高崎が高崎であるアイデンティティがしぼみはじめたようなのである。
これは皮肉なことだ。
こうしてダルマとキティーダルマを並べると
こころなしかダルマがうつろな表情をしているようでさえある。
地域の情報発信とは
地域の個性を中央のメディアに認めさせることではなく
中央からの平準化を受け入れること
だよな
と言っているかのようなのである。
このままでは、地方の名折れである。
ダルマの危機である。
そうしたいきさつの中で、ダルマも手をこまねいていたわけではなかった。
自らのアイデンティティを、文字通り復活させたのである。
陶器製である。
なんだかすごいものを復古させてしまった。
キティーのカワイさの対極である。
そうなのだ。
キティーが誘う中央への平準化をこばみ
高崎が高崎であることをふたたび実感するためには
並の破壊力では対抗できなかったのだ。
その風貌は
食欲や所有欲を突抜け
寺社でお守りを購入する時のようなあらたまった気分に
購入者をいざなう。
器のくせに、紙の器に入っている。
しかもその紙の器を内側からうちやぶるようなこの膨満感はどうだ。
1300円という値段もふくめ
これはもはや
駅で購入するお食事というよりは
高崎の歴史づくり
もしくは
まちづくり活動への参画の証(あかし)
とでもいうべき風格をたたえているように思えて来るではないか。
日に何食も出て行くものではないだろう。
しかし、この復古先生がにらみを利かしているおかげで
少なくとも
ダルマはキティーとの折り合いをつけながら
失われつつあった自信を回復しているに違いない。
さすがはダルマ
転んでもタダは起きない。
- 2009.12.04 Friday
- 日記
- 00:33
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- by 山田耕司