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自己ちょっかい

 

 

 

 

当然のことながら、 写真を撮っていると自分は写らない。

むしろ、自分の姿を見たくないので カメラを持つのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

10月にしては暑いホームの上を歩きながら

何が撮りたいわけでもなく 写真を撮る。

撮るからには やれ、好みの構図だの、色合いだのというものが出てくるわけだけれど

それがあらかじめあるわけではなく ようは、ことのなり行きでの自分らしさめいたものであって。

 

 

 

 

 

 

とりあえずの自分らしさめいたものが

どのような反応を示すのか知りたくて

また何かをカタチにしてみる。

自己表現、と言われると、ちょっと面映ゆい。

自分というものすべてを意識が統括しているという認識を離れ

いわば予想もしない自分の感覚にちょっかいを出そうというのだが

となれば 「自己ちょっかい」 とでもいうべきか。

 

いささか、危険なにおいもしなくもないが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白露に舌のとどかぬやすけさよ      耕司

 

 

 

 


まなざしは「ふやふや」として

 

○だけ描いている人がいて

その○を面白がる人がいる。

実に、味があるのだ。

 

それを手ぬぐいにしたら売れるだろうと行動する人がいて

それを面白いと思って買う人がいる。

 

たとえばそういう営みのどこかに、障がいをもつ人がいるというのである。

そこにあるモノが、そこに「ある」という状態になるためには

それこそほんとうにたくさんの人の手がかかわることだろうし

人のネットワークの面白さとあわせて

また来訪者のにぎにぎしい雰囲気もあってか

とても楽しい展示であった。

 

会場 伊東屋珈琲2号店 (itoyacoffee factory)

 

それはそうと

 

展示用の棚は藤井くんが作ったというのだが

その最上部から誰かに見られているような気がしたのであって。

 

 

 

 

人のかたち

そういわれて、なるほど、そうだとなるわけだが

そもそもこれらは人のかたちそのものではない。

そう思えちゃう、ということなのであって。

 

かといって

ここに本物の人間が座っていたりしたら

それはそれでとてつもなく恐ろしいことだろう。

人形は

「そう思えちゃう」という「あいまいな脳」をそれとなく肯定してくれる

ふやふやとした存在ということになろうか。

 

すっきりとした空間に

ふやふやとしたものがどこかを見つめていて

なんだか

これを見るのを目的に来てしまったようでもあった。

 

 

 

 

 

 

 


大あくび

 

よく寝た。

 

 

 

ほぼ1年ぶりの投稿である。

 

現実の日常は、これほど忙しい一年はないのではないか、というものであった。

今年の一月に父が他界。以降、瞬く間に時が過ぎた。

 

 

 

 

 

大風呂敷 改装後の写真。

右の柱は耐震用のヒノキのすじかい。

土台の基礎工事をする必要があったので、床面を切り取ったわけで

そこをそのまま埋めるのはつまらないから、砂利を入れて堀割風に。

 

 

 

別アングル。

 

 

 

 

世の動きの何に合わせるわけでもなく

何かを待っているようでそれが何であったかを忘れてしまったような

その、うつらうつら。

 

未だ、目覚めているという覚悟もなく。

 

 

 

蓑虫の返事を待つてゐて此岸 耕司

 



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