ひげもじゃの大男が
抜き身のカタナをひっさげてどこかをにらんでいる。
怖くて
道を聞くことさえ出来そうにも無い。
で
この大男は何者なのかということだが
コードネームは「鍾馗さま」。
鍾馗さまと聞いて
ああ、鍾馗さまね と納得出来る人はそれでよいが
え? 誰? という人もいることだろう。
え? 誰? といぶかしむ人を
「基礎教養の無い人」と片付けてしまう傾向が無いわけでもない。
昔の人にはすべて基礎教養があったと思いがちではあるけれど
実のところ
あまり違いは無かった
いや
情報の流通しやすい現代の方が
「あらかじめの知識」を持ちやすいくらいなのではないかと思う。
この大男の足元にいるのは
赤いネコ、ではない。
鬼である。
ふんづけられるアマンジャク。
これは悪の約束。邪であることの記号。
これをふんづけているので
この大男は〈善〉の領域にいることとなる。
このアマンジャクのすがたから〈善〉〈悪〉の約束を見分けること
それが昔の人の基礎教養といえば基礎教養だったかもしれない。
約束事を約束事として受け取ること
絵の巧拙よりも、示されている意味を理解することが一枚上に位置するわけで
であるからこそ
意味を充たしさえすれば
画家はおのれの妄想を思うがままに遊ばせるのも、また可なるべし。
現代人は
絵を意味から解放しようとした近代人の末裔で
もはや
そこに示されていることの意味やら約束を見失い
意味からの解放の衝撃にあふれた印象派の作品なぞも「泰西名画」でひとくくり
この色が好きだの
雰囲気がいいだの
値段が高そうだの
ネットで見たことがあるだの
そんな感想しか言えなくなっているとの指摘がある。
なるほど。
そういえなくもないが
約束という枠を見失って右往左往することも
また魂の旅路のありようでもあり
あながち現代人が不幸であるとも言い切れない。
それはそうと
〈鍾馗さま〉の〈善〉を際立たせるつもりならば
アマンジャクの〈悪〉ぶりを際立たせた方が
モリアガルとは思われるものの
さて
このアマンジャクのかわいらしいこと。
約束事が行き渡っているところでは
約束を約束たらしめる記号というものは
それほど居丈高になることも無く
むしろ作家の人柄等をひきうける余韻さえも示しているようである。
したがって
たいしたことが無いものでも
やたらと〈悪〉に仕立て上げ
それを攻撃することが〈善〉だと言い張る行為は
約束事がゆるみ廃れ
あるいは人々が従来の約束事に不満やら疑念を持っている証左ともいえそうで。
現代のニュースの
善悪のイコンが
必要以上に大げさなるもむべなるべし。
さても
そうした人間の営みのスキマで
今年もアマンジャクはすこやかにふんづけられておわします
その5月の
しょうぶあやめの花の奥。
追記 これらのノボリは山鹿コレクションの筒描き画。
桐生市本町2丁目 矢野商店の黒い梁がうつくしい店内に展示されています。